有識者による役立つコラム
PROFILE
明治大学
情報コミュニケーション学部
後藤 晶専任准教授
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学歴
2010.04〜2015.03 明治大学 情報コミュニケーション研究科 博士後期課程修了 博士(情報コミュニケーション学)
2008.04〜2010.03 明治大学 情報コミュニケーション研究科 修士課程修了 修士(情報コミュニケーション学)
2004.04〜2008.03 中央大学 総合政策学部 卒業 学士(総合政策) -
主要学科目
不確実性下の人間行動、情報と経済行動
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現在の専門分野
行動経済学、社会情報学(キーワード:行動経済学、実験社会科学、計算社会科学、実験室実験、ナッジ、クラウドソーシング、オンライン実験)
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研究テーマ
ゲーム実験による自発的貢献行動の研究·行動経済学の社会実装に関する研究
VOL. 1
札幌を「アルカサル」街へ
はじめに
健康づくりで一番難しいのは、「知らない」ことではなく「続けられない」ことです。多くの方は「歩いた方がいい」「運動した方がいい」と分かっていても、忙しさや天候などの理由で、なかなか続けられません。これは意志が弱いからではありません。人間には「今」を優先してしまう心理的な特徴、現在バイアスがあるからです。
札幌市が2026年4月から導入する健康アプリ「アルカサル」は、こうした人間の心理を理解したうえで、自然と歩きたくなり、動きたくなり、人と交わりたくなるような仕組みを目指しています。この名称は、北海道弁の「歩かさる」(勝手に歩いてしまう)から着想を得たもので、市民投票で最優秀賞に選ばれました。「このアプリを使ったら、気づいたら歩いてたね!という会話が生まれるように」という願いが込められています。
本稿では、この「アルカサル」の機能と、その背景にある行動経済学・行動科学の考え方について解説します。
アルカサルでできること
「アルカサル」には、「歩く」「健康管理」「人と会う」という3つの主要機能があります。
歩く機能
スマートフォンの歩数計測機能と連携して、毎日の歩数を自動で記録します。スマートフォンを持って歩くだけで、自然と記録が残ります。現在の制度設計では1日2,000歩以上歩くとポイント(1ポイント=1円相当)を獲得でき、歩数はグラフで表示されます。リアルタイムで歩数がカウントされるため、日々の運動量を「見える化」できます。
また、地域・年代別のランキング機能があり、自分が同世代や同地域の人々の中でどのくらいの位置にいるかを確認できます。家族や知人と歩数を競い合えるグループ機能も用意されており、楽しみながら継続できる工夫がなされています。さらに、市内に設定されたウォーキングコースに挑戦する機能もあり、札幌の街を楽しみながら歩くことができます。
健康管理機能
体重や血圧を記録し、グラフで確認できます。日々の数値の変化が視覚的に分かるため、健康管理のモチベーション維持に役立ちます。さらに、毎日の体調(発熱、せき・鼻水、転倒・つまずき)を記録したり、自分なりの目標を設定してその達成度を確認することもできます。
特に重要なのは、フレイル予防のための健康状態チェック機能です。フレイルとは、加齢に伴い心身の活力が低下した状態を指し、適切な対策により予防・改善が可能です。アプリでは定期的な健康チェックを促し、早期発見・早期対応をサポートします。また、健康診断(がん検診や歯科検診などを含む)の受診状況を記録する機能もあり、一つのアプリで健康管理が完結します。
人と会う機能
さらに、「アルカサル」ではイベント会場に設置されたQRコードを読み取ることでポイントを獲得できます。この機能は、単に歩くだけでなく、実際に外出して人と交流することを促す仕組みです。一般的に社会参加は健康寿命延伸において極めて重要な要素であり、孤立を防ぐ効果も期待できます。
アプリから場所や開催期間を設定してイベントを検索することも可能です。2025年8月からの市民モニター期間中にも複数のイベントと連携しており、本格実施に向けてさらに拡充される予定です。
その他の機能
健康増進につながる動画をアプリ上から視聴できます(動画視聴もポイント対象、1日1回まで)。外出が難しい日でも、自宅で健康活動に取り組めます。冬の雪道が心配な日や、体調がすぐれない日でも、動画を見ながら軽い運動をすることで健康習慣を維持できます。
また、1日以上歩数が記録されなかったときに、あらかじめ登録した家族や知人へお知らせが届く見守り機能もあります。高齢者の見守りにも活用でき、家族の安心につながります。
ポイント制度
日々の健康活動で貯まったポイントは、プレゼント抽選への応募や電子マネー(地下鉄やJR、買い物でも利用可能)への交換に使えます。小さな行動の積み重ねが、実際の利益につながる仕組みです。
ポイントは歩数記録だけでなく、体重・血圧の記録、動画視聴、イベント参加など、様々な健康行動で獲得できます。また、要介護2以上の方など、日常的な外出が難しい市民にも配慮した設計になっており、様々な形で健康ポイントを獲得できる仕組みが用意されています。
貯まったポイントは、抽選に応募したり、電子マネーに交換して実際の生活で使用したりできます。あなたの健康づくりが、札幌のまちを元気にすることにもつながります。
行動経済学の視点から見た設計思想
さて、「アルカサル」の設計には、行動科学・行動経済学の知見が多く活用されています。ここでは、一般的な健康アプリにおける行動経済学の応用について解説します。
ナッジ(NUDGES)という考え方
ナッジとは、英語で「ひじで軽くつつく」という意味です。何かを禁止したり強制したりせず、そっと背中を押すように、自然と良い行動を選びたくなる工夫のことです。この考え方は、2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラー教授らが提唱し、世界中の公共政策や企業の取り組みで活用されています。
重要なのは、「選択の自由を保持する」という点です。歩くかどうか、健康を管理するかどうか、人に会うかどうか、アプリの機能を使うかどうか、ランキングに参加するかどうか、すべて利用者が自分で選べます。強制ではなく、自然と良い選択をしたくなる環境をデザインすることが、ナッジのポイントです。
即時的なフィードバックの効果
「アルカサル」では、歩数に応じてすぐにポイントが付与されます。人は遠い将来の利益よりも、今すぐもらえるご褒美を好む現在バイアスという傾向があります。人は遠い将来の利益よりも目の前の報酬を過大評価する傾向があり(双曲割引)、「将来の健康のために」という抽象的で遠い目標よりも、「歩く→すぐにポイント」というより近い具体的な目標の方が、行動の動機づけと継続に有効だったりします。
見える化の力
歩数や体重をグラフで表示する「見える化」の機能も、行動変容において重要です。目に見えない変化は実感しにくく、モチベーションの低下につながります。しかし、グラフで視覚的に確認できれば、「先週より増えた」「今月は頑張っている」といった小さな達成感を得られます。この小さな達成感の積み重ねが、継続の鍵となります。
社会的比較とグループ機能
ランキング機能では他者と比較できますが、グループ機能では家族や知人といった身近な人々と歩数を競い合えます。適切な社会的比較は動機づけを高める効果があります。「あの人も頑張っているから自分も」という心理が働くのです。
一方で、過度な競争は逆効果になることもあります。常に最下位だと感じると、やる気を失ってしまいます。「アルカサル」では、参加者が自分で選択できる設計になっており、自己決定理論に基づいた配慮がなされていると考えられます。ランキングに参加するかどうか、グループ機能を使うかどうかは、すべて自分で決められます。
ゲーミフィケーション
ポイント、ランキング、グループ機能などは、ゲームのように楽しみながら健康づくりができるゲーミフィケーションという工夫です。小さな成功を積み重ねることで、「自分にもできる」という自信(自己効力感)が育ち、継続につながります。
ゲームが面白いのは、明確な目標があり、達成すると報酬がもらえ、レベルが上がっていく仕組みがあるからです。同じ原理を健康行動に応用することで、「頑張らなきゃ」という義務感ではなく、「楽しいからやりたい」という内発的動機づけを生み出すことを狙っています。
データで進化し続けるアプリ
「アルカサル」は、2025年8月から市民モニター550名による試験運用が実施され、使い勝手や操作性などの改善が進められています。モニターの最大の目的は、アプリの使いやすさやわかりやすさ、画面の見やすさなどを実際にアプリを動かして確認し、改善点を洗い出すことです。
登録者数、継続率、歩数など、様々なデータを個人が特定されないように匿名化した形で収集・分析し、継続的な改善が行われる予定です。市民モニターの皆様を対象としたアンケート調査も複数回実施され、その結果が2026年4月の本格実施に向けたアプリの改善に役立てられます。
これは「エビデンスに基づく政策立案(EBPM)」の実践といえます。PDCAサイクル(計画・実行・評価・改善)を回すことで、行動経済学の知見を実装と検証を繰り返しながら精緻化するデータ駆動型の改善サイクルといえます。
実際、初期のモニター調査では、歩数や体重、血圧の記録などで活用され、健康を意識した活動の習慣化に役立つとの好意的な意見が多く上がっています。市はこうした調査結果を踏まえ、使い勝手や操作性などの改善を進めています。
札幌らしい工夫
アプリのホーム画面には札幌のシンボルである時計台が配置され、シンプルで見やすい画面づくりを心がけています。札幌らしさを感じられるデザインは、市民の親しみやすさにつながります。
また、札幌の冬は雪が多く、外を歩くのが大変な日もあります。そうした日のために、健康動画の視聴機能が用意されており、天気に関係なく健康習慣を維持できます。将来的には、屋内で歩ける場所の情報提供なども今後の展開として期待されます。
これからの課題
多くの健康アプリでは、最初は使っていても数か月後には使わなくなる方が増えます。長期継続のためには、段階的な目標調整や新機能の追加など、継続的な改善が必要です。利用者が飽きないように、季節ごとのイベントや新しいコンテンツの追加など、工夫を続けることが求められます。
また、高齢の方やスマートフォンに慣れていない方が安心して使えるように、相談窓口や講習会の充実も重要です。デジタルディバイド(情報格差)への配慮は、公共アプリにおいて欠かせません。札幌市では札幌健康アプリ事務局を設置し、電話での問い合わせに対応しています。
実際に使用した方の声を反映し、札幌市の皆さまに育てられて進化する「アルカサル」を目指しています。
おわりに
札幌市の健康アプリ「アルカサル」には、歩数記録、健康管理、イベント参加など、日々の健康行動を「見える化」するだけでなく、さまざまな仕掛けがあります。
冒頭で述べたように、健康づくりで難しいことの一つは「続けられない」ことです。歩くことによる健康への効果はすぐにわかるものではないために、目先の「利益」を追い求めてしまいます。人間には「今」を優先してしまう心理的特徴があります。「アルカサル」は、この現在バイアスを逆手に取り、「歩く→ポイント」というインセンティブを用意することで、遠い将来の健康という遠くて曖昧な目標を、今日の具体的な行動に結びつけています。意志の力で現在バイアスと戦うのではなく、仕組みによって自然と健康的に行動を導くのです。ポイント制度やゲーミフィケーションの要素を組み合わせることで、無理なく楽しく健康づくりを続けられる仕組みを用意しています。
このアプリは市民の皆さんに自然に「健康」になってもらうことを目的としています。世界保健機関(WHO)の定義する健康の3要素である「肉体的健康」「精神的健康」「社会的健康」それぞれへの効果を狙っています。歩数記録や健康管理機能は肉体的健康を、ゲーミフィケーションによる達成感や自己効力感の向上は精神的健康を、そしてイベント参加やグループ機能は社会的健康をそれぞれサポートします。本当の意味での健康寿命延伸には、これら3つの要素すべてが欠けてはならず、「アルカサル」は市民の皆さんの健康を支えるプラットフォームとして設計されているのです。
この「歩かさる(気づくと歩いてしまう)」という名前が、まさにその設計思想を表しています。意志の力に頼るのではなく、環境と仕組みが自然と行動を導く。気がついたら自然と健康になってしまう、札幌がそんな街になることを願っています。
行動経済学の研究に携わる者として、この取り組みが札幌市だけでなく他の自治体や健康増進施策にも波及し、「アルカサル街、札幌」から「アルカサル国、日本」へと広がっていくことを期待します。
※本稿は札幌市健康アプリ「アルカサル」の公式情報に基づくコメントです。記載の解釈は筆者の分析によるものであり、札幌市の公式見解を示すものではありません。アプリの詳細機能は開発中のため、導入時に一部変更となる場合があります。最新情報は札幌市公式サイトをご確認ください。
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